ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その2)

ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について その1 の続きです。

チャルーン・サティの手動瞑想との類似点

マハシ式では歩く瞑想、手の上げ下げ瞑想など、型を定めることもできるが、はっきり言えばすべての動作、行為を瞑想化することができる。この時行うのは、動作への気づき、それに合わせてラベリングすること。それ以上でもそれ以下でもない。が、この行為、動きに気づくことの結果として、今渦巻く感情や思考から離れる。

これはプラユキ先生が指導されているチャルーン・サティの手動瞑想とほぼ同じような結果を導き出すし、そのプロセスも似ている。
https://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k

異なる点は、歩く瞑想をするならば、下半身の動かしている方だけが全てになるくらい集中し、そこに生じる感覚に気づくようにというように指導をされること。つまり集中力についての取扱が異なる

チャルーン・サティでは感情が浮かんだら、パッと手に戻る、その位置に戻るというように自由な浮遊があって、それでいてある特定の時空(手)にアンカリングする。その時、多分初期は、ぐっと集中させない。軽く振れるくらいの気持ちで、ふわっと気づくように、という感じだと思う。

が、マハシ式の動中禅ではそもそもその領域全体に心を係留するように、集中力によって気づきが常にその辺に漂うようにという指導になる。ただ、座るときは、お腹の膨らみ・縮をベースラインに設定するし、心がさまようことはそれほど妨げないけど。
https://twitter.com/i/moments/818739025028616192

で、私個人で言えば、そんなうまくは行かない。心は常に泳ぐし、さまよう。妄想の海を泳いでいる。

けど、明言されてないかもしれないが、くじける必要はまったくない。(色んな所で、スマナサーラ長老ははっきりいっている気がするけど…)

今失敗したならまたやればいい。

何万回でも繰り返せばいい


そういう前提がヴィパッサナー瞑想にはある。というか、ものすごい回数失敗するのは前提。だって誰もほとんどやったことのない心の使い方だから。超難しいから。慣れてないから。それが大前提。

だから口ぶりは厳しいように見えるが(スマナサーラ長老の個人インタビューは本当に怖いぞい(と感じるかも))、
間違うことを否定すること、それと同時に成功することへの執着を手放した態度
が、マハシ式の前提にある。(他のヴィパッサナー瞑想法にも。)

ま、「私はまだまだダメなやつ」というのも前提にある。 「悟るまでの人間はなかなかダメ といってもよい。これが気に食わない人はちょっとつらいかな。

理想(辿り着く先:妄想をなくすこと)も語っているから否定に聞こえるかもしれない。私はそう聞こえないタイプで、言われていることをそのまま捉えるタイプ&裏が読めないから、そのへんは楽。言われてないことを読み取ってしまうと、やりにくくなるかも。できないとダメなんだ、を読み取ると辛い。かなりできないから。

私は多分何万回も失敗している

が、そんなものだと思ってる。失敗するのが私だ。そんなもんだが、失敗で止めるより良いんじゃないかと思っている。歩き続けることが最も重要かもと思っている。

と言うか、数限りない失敗をしつつ、楽になっていく。極めて。ありえないほど、信じられないほど、想像していなかったほど、心の重荷が取れる。ちょっとやってみるだけでそのことはわかる。二週間やればだいたい分かるきっと。私は体も心も軽くなって、いろんなことを忘れるようになった。若年性健忘症も完成間近である。
https://twitter.com/jinon/status/887082586501140480

体も健康になるし。
https://juryoku.blogspot.jp/2017/05/blog-post.html

ま、楽になってるなら、何も間違いはないです。たとえ瞑想って厳しいなあ、大変だなあと感じても、日々の生活が楽になり、苦しみが軽減されているなら間違いはない。うまく行っているかどうかの判断基準はそれだけです。(瞑想への抵抗感などを指標にすると間違いますのでお気をつけ下さい)。
https://twitter.com/jinon/status/886498864315760640

蛇足: ラベルは決して現在の現象ではない。記号にすぎない。

「ラベルそのものは、現実と関係がない」というとどう聞こえるだろうか。

例えば歩く瞑想で「右足、あげる、はこぶ、下ろす」とラベリング、実況中継するが、その時の感覚は言葉と同一ではない。記述はしているが、同一では決して無い。言葉は記号である。 

言葉は、指差し確認のときの指である。確認対象ではない。指でしかない。

このあたりも、実はラベリング瞑想への向き不向きに関連しているかもしれない。例えば、言葉は事実だと思う傾向が強いと、「妄想」「雑念」とラベリングすることへの抵抗が強くなるかもしれない。

言葉が事実と関係なければ、言葉は力を持ちようがない。本質的な意味がなければマントラにはならない。が、意味があるという前提、マントラになりうるという前提があれば、ラベリングという実践に問題が発生する可能性はあるかも。

ただ、言葉が力を持ちうる音であるという思想は密教の系譜と言えるだろうし、人間のアニミズムの基本でもあると思うので、実はものすごく根の深い思想、世界認識ですね。(この態度は、言霊、呪い、それらの実在性についてもしっかりつながる。)

でも本当はそうではない。わかりにくいかもしれないが、例えば、野球やサッカー、フィギュアスケート、マラソン、バスケ、なんでも良いが、そういったものの実況中継や解説は、決して野球やサッカーそのものではないでしょう?  

これらの実況中継や解説を聞いても、そのスポーツを見たことにはならないし、経験したことにもならないし、プレイしたことにもならない。

あるいは食べたことのない料理、日本人にとってはペルー料理とかをいくら言葉で説明されても、わからないでしょう?  ペルー料理の分厚い本を何冊読んでも、世界中の人がペルー料理について書いたつぶやきを読んでも、推測はできても、「理解」はできない。和食しか食べたことのない人なら、アメリカ料理だってわからない。タイ料理も。

でも、一口食べればだいたい分かる。かなりわかる。もちろんたくさん読めば、推測は少し近づくかも? でも食べたことにはならない。でもその推測が当たっているかどうかさえ、本当のところはわからない。「わかった!」という感じは生まれない。経験にならないから。
* 推測については、お寿司の説明を聞いて、こんな風に想像するとかと同じこと。(ハンターハンターから) http://twisave.com/shiroas/favorites/2016/1/22

だからもし、言葉にしっかりした意味があり、事実が宿っていてそれを伝えられるなら、言葉を聞くだけでその味を理解できないとおかしい。言葉が本質とリンクしているなら、言葉によってすべてがわからないとおかしい。でも、実際にはリンクしていないから、言葉ではわからないことばかりがこの世の中に溢れてる。

というか百聞は一見にしかず、です。簡単に言えば。

で、実況や解説が打て!といったら、たとえ自陣のペナルティエリアにいてもシュート打つでしょ! ピッチャーが敬遠しようとして、絶対届かないけどバット振るでしょ! と思うのがマントラです。子どものときって親がスポーツの応援しに来て叫んだりするけど、その叫びに自分が、現実が左右されると考えればマントラですし、言葉に本質があるとする考えです。

あなたはマントラ派?それとも記号派?


実際のところ、マントラ派として生きてしまいがちなのが我々人間だと思います。人の言うことを聞いちゃうしね、良くも悪くも。人によって割合は異なっていても、両方の想いが存在しているでしょう。というかマントラの割合が多くあるのが普通かも。で、私が思う仏教の第一の悟り「預流果」は、完全に記号派になることと同義だと思う。マントラ派の撲滅。自分の中のマントラ派が0になること。


以上、長々と書いてしまいましたが、どれも私個人の、私の体験にしか根拠のない言葉です。経典とか勉強してないから。 一応その体験に外れないようには書いたつもりですが。あ、でも、その2の後半は遊びみたいになりましたね。

ここまで読んでいただいた方皆様、読んでない方、そして生きとし生けるものに、三宝のご加護がございますように。

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