ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想(マハシメソッド)について(その1)


以下は、あくまで、途上の人間が、途上の人間に浮かんだ見解を書いたものです。見解なんてくだらないものです、と予めいっておきます。

ですから、参考程度、落書き程度に思って読んでいただければ幸いです。

*かなり長くなったので分割しました。その2に続きますが、結構主題は変わっているので問題ないかも?

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以前、ラベリングを用いるヴィパッサナー瞑想についてかいた。
ラベリング瞑想という言葉やラベリングにまつわる問題について

この瞑想法は、「マハーシ・サヤドー」がまとめ上げたものなので、マハシ式、 マハーシメソッド、などと呼べるし、twitterでは言葉を短くするために(140字だから)、マ式ヴィなどと言っていることもある。

イケメン マハシ長老 のお写真
https://twitter.com/ERcUp5PO2AGVtWh/status/886993034902085632

これについて補足をしてみたく思った。ラベルとは何か、および、ラベルを用いる瞑想は「何ではないか」について。


ラベリング瞑想では「価値判断」をしない


マハーシ式に限ったことではなく、あらゆるヴィパッサナー瞑想、座禅なども、価値判断は行わない。瞑想中は一切の価値を手放すものであるから。

で、マハシ式の座る瞑想では心に浮かんだことは例外なく【雑念】【妄想】のどちらかのラベルを貼る。起きたものに対して、何であるか、どうしてであるかの判断は行わない。一切の価値判断を捨てる。捨てる=手放すということでもあり、とにかく、離れることになる。

浮かんできたもの、起こってきたものが何であるかをいちいち判断していたらひどく遅くなるし、またその判断の過程で【思考】が割り込み、思考の強化に陥ってしまいかねない。

だから「妄想」「雑念」というラベルを貼るのは物置に放っておくという意味合いになる。
「これらが浮かぶ自分はだめなんだ」
「これらを考える自分は妄想ばかりしていてダメなんだ」
と自己否定を行うためではない。その感情を強化するためでもないし、その感情に耽溺するためでもない。

お片付けのラベル貼り。そしてちょっと乱暴だが、心に浮かんだすべてを片付ける。オッケーという言葉は貼らないが、じゃあね!ってバイバイする。バイバイしやすいようにするために、ラベリングする。


乱暴にパッケージする

妄想や雑念という単語にはしっかり「マイナス」の価値がくっついている。が、他の言葉、「思考」では心におきる現象の一部に過ぎず、「感情」も一部にすぎないので使いにくい。

心に浮かんだすべての現象、感情、概念、イメージ、思考、言葉などなどを「一括して」「まとめて」、何も考えずにとりあえず脇に置くために、【雑念】【妄想】とラベリングする。

もちろん、仏教の基本として、これらは手放すべきものというのがある。それが故に、基本的には、マイナスの意味付けのある言葉になっているのかなと思う。他に良い言葉があればそれでもよいと思う。 でも「現象」だと遠すぎる。なんか少し分かる言葉でないとね。

こういうところが微妙なポイントかもしれない。わかりにくいとも言えるし、精密とも言える。白でも黒でもなく、青、みたいな感じになることが多い。初期仏教全般に言えるかもしれない。


実況中継、ラベリングで行っていること

ヴィパッサナー瞑想では心におきるすべての現象を手放す。決して価値判断はしないし、分析もなく、自己探索も行わない。ただただ手放すという心の行為だけ。

そのため、思考、感情に自分がついていけなくなる。思考感情を追えなくなる、感情のエネルギーの回転を止めざるを得なくなる。

このとき、回転への執着があると抵抗感が生まれ、ラベリング自体を回避したくなったりするかもしれない。何とか回転を維持しようと工夫してしまうかもと思う。そしてここが瞑想難民に陥るかどうかのポイントではないかと私は考える。心の回転を止めるということ自体が、全く理解できないのではないかと。もっとも、意識的・意図的にそうするわけでもないとは思う。(正直良くわからないのでこの辺は適当)

繰り返しになるが、ラベリングを利用する瞑想では決してラベルの意味を重要視しない。
「どうラベリングをしなければならないか」とは考えない

ただあまり離れてもアホっぽくなるから(たとえば、怒りの感情が生まれて【おっぱい】とラベリングするのは私は楽しいが…)、それなりに関係のある言葉でやる。

でも感情や思考が荒れ狂っていてどうしようもなく、あからさまに怒りとわかってるなら、「怒り、怒り、怒り」「怒っている、怒っている、怒っている」と現状についてラベリングし、手放せるようにする。しかしこれもマントラではない。言い聞かせるものでもない。あくまで客観視するための手順。

補足: マハシメソッドは気づきのコース料理

で、上のことを補足すると、嵐のときは座る瞑想は無理。歩く瞑想ができるならいいが、それも辛い人もいる。

マハシ式はコース料理みたいなところがあって、無理なときは本当は慈悲の瞑想から入る。が、慈悲の瞑想そのものはかなり人によって拒否反応が出てしまうし、無理という場合も多い。

だからどれもこれも無理なら、マハシメソッドのヴィパッサナー瞑想ではなくて、別の手段で心を落ち着けてからやったほうが良いだろう。それは例えば、プラユキ師が指導しているチャルーン・サティなど。あるいはそもそもの心理療法的な何かを受けるとか。万能薬とはいえない。が、死に際の人がこれで立ち直った例もいくつもあるけれど、相性はある。

以上のように、マハーシメソッドは極めて不思議なバランスにあるといえる。難しい。伝えるのが難しい。否定も肯定もしないで手放すこと自体を伝えるのはかなり難しい。しかも、なんかマイナスな意味のある言葉を使うしね。

マハシメソッドで絶対やらないこと

色々書いたが、絶対にやらないことを改めて言えば、自己を否定すること。それだけは、マハシ式でやることではない。

言い聞かせることもやらない。
分析することもしない。
思考を追うこともしない。
思考の流れを理解することでもない。
(その他、具体的なことを言えば、感じるより先にラベリングしない。掛け声にしない)

ただただ愚直に「気づく」だけ。その補助として【ラベリング】するだけ。ラベリングはあくまでも杖、補助道具なので。

主となる心の行為は、気づくこと。
気づきとラベルは違う、
気づきと言葉は違う、
気づきと感情も違う。

感情が起きていることを認識すること、感情に巻き込まれていることを認識することと言える。ただ認識という単語も難しい言葉だ。なんとなく、見ることに近い。意識することに近い。ハッとするときの「ハッ」とか我に返るときのあの感覚とか。あとは、今、自分の足がどんなふうな姿勢を取っているか、わかるでしょう? 今、自分の指がどんなふうに握られているか、どんなふうに開かれているか、それも言葉も、概念も、何も使わずに理解できるでしょう? そういうようにわかることでもあるかな。

そんな風に、心に起きること全て、体に起きること全てを、わかること、それが気づくってことです。


つまり、ラベルは、
気づきを思考や概念で邪魔させず、更に心にしっかりフィードバックするため
に使う。だから私の言葉では、
ラベリングはターボチャージャー
です。車好きじゃないとわからない。私もそれほどわかりませんけど。決してラベルを貼ることがこの瞑想ではないです。




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