欲と必要性、仏道とシューティングゲーム

これは極めて個人的な感覚であることを断っておく。
また、私は、数日間ゲームに没頭してしまうくらいに、中毒のようになってしまうタイプの人間であることも断っておく。若い頃は、20時間近く連続でゲームすることもザラだった。依存症者のようなものだ。

ゲームという消費


3日前に、久しぶりにゲームをやって時間を潰した。スマホの単純なパズルゲームだ。

結果、いつもと同じように、極めて激しい虚しさに襲われる。

やっているときはそうでもない、楽しんでいる。快楽のひとときだ。だが終わったあとのあの誰にとってもなんの訳にも立たなかった、ただ費消された時間への、すごい後悔と言うか虚無感はなんだろう。苦しくて仕方なくなる。充実感ゼロの時間。ただ消えた時間。


で、ふと思ったが、ゲームに限らず、欲望で行った行為は、いつもそうなる気がする。たくさん食べるのも、遊ぶのも、「したい」「やりたい」という感情から出た行為は、何故かいつでも、虚しいという結果に行き着く。

*この感覚が、もしかしたら僕を、依存し続けることから救ってくれていたのかもしれない。

逆に、必要のため、なすべきことのための行為をしたあと、虚しさというのは現れない。 やっているときはつらくても、成し遂げたあとに充実感が生まれる。やってよかったという感覚が生まれる。


常に、そうなのだろう。
「したい、ほしい、やりたい」そういう感情を元に、そういう衝動を元に行為したあと、多分、僕はいつでも、苦しむ。結果が常に辛くなる。その時間は二度と取り戻せないし、何よりその時間で得たこと、役に立ったことがゼロなのだ。ゲームがうまくなっても、何も変わらない。現実はゲームほど単純なことはほとんどなく、得た知や技能は、適用できない。

*シミュレーションゲームはちょっと面白みはあるかな。富国強兵策の基本を取ればだいたい負けないとかは中学の頃に学んだ。

だからこそ、常に、「したいこと、ほしいもの」なのか「なすべきこと、必要なもの」なのかを、判別して生きていかねばと思った。

常に、なすべきこと、必要なことだけをこなしていければ、日々は充実感に溢れ、幸せにあふれるだろう。

それにまた、欲望と対立した必要性という軸の事柄は、それほど多くない。つまり、雑事が少なくなる。無為の時間が現れる。瞑想、実践に費やすことができるようになる。

必要性の数直線上で生きてみること、それが僕のやりたいなあという道だ。


仏道というシューティングゲーム

一方、人生というのはゲームだという考え方もある。特に究極の「生まれた意味」がない以上、 死ぬまでの暇つぶしと言ってもいいところはある。

で、どうせやるなら、虚しさに襲われないゲームの方がいい。そして、それは僕がいつもやっている瞑想なんだと思った。

もちろん、仏道と言うときは、瞑想を包含する仏教の生き方の指針となる。それが指し示すのは覚りという越境であり、涅槃というゴールであり、寂静という状態だ。そこまで行くゲームが仏道といえる。

このゲームには、戒律・慈悲の実践・布施・教学・瞑想などの下位ゲームがあるが、これらのゲームはすべて相関している。どれかをうまくやれば、だいたいほかのパラメーターもよくなる。教学はちょっと危険性があるが、抗がん剤のようにコントロールして用いれば、極めて有用だ。

特に瞑想はゲームのように行える。で、僕は、スマナサーラ長老指導の瞑想ゲームにどっぷりつかっている。

生命現象を撃ち落とせ!

スマ式ゲームは、幾つかのモードがあるけど、基本的なタスクとしては、「生命現象に気づく」ことで、なんだかシューティングゲームに似てる。生命に現れる現象を撃ち落とすシューティングゲーム。

ものすごいスピードで現れてくるすべてに気づき続ける。怒り、痛み、しびれ、かゆみ、眠気、妄想、etc.

例え話にすぎないが、私という機体に乗ってゲームを始めると、すぐに敵(生命現象)が襲ってくる。ものすごい数の襲いかかる敵を気づきで撃ち落とす。エネルギーを貯めた弾を打てると、すぐに敵は死ぬ。この時チャージされるエネルギーは、定(集中力)だ。また、戒律を守って暮らすと、機体には強いバリアーが張られるようになる。慈悲の実践を行えば、機体の安定性も非常に高まり、同時に敵が弱くなってくれたり、救援の味方が現れたりする。

更に弾薬の数(精進)も限られる。 正命(正しい生計)を保てば、この弾薬は増え、より多くの敵を打ち倒せるようになる(長時間出来るようになる)。

機体のレベルが上がれば、秒間あたりの弾数もぐんと増えて、敵が現れたその瞬間に打ち込めるし、現れてくる場所(苦)もよく見えるようになる。

敵が減ってくると、「智慧」というスキルが身についてくる。全く違う弾を撃てるようになったりする感じだ。

どんどん進むにつれて、瞑想していない日常生活も変わり始め、僕という機体が大きく変容していく。常に気づきという弾を打ち続け、智慧を用いられるようになる。

現実の見え方が変わり、日々が楽に、楽しく、幸せになっていく。

(心の変化に応じて、体も変化する。実際に瘠せたり、フォアグラ(脂肪肝)がなくなったり、乾癬が消えたり、花粉症がなくなったりする。 仏道は健康によいので


五蓋という五人のボスと超サイヤ人、ATフィールド

敵は、煩悩・執著から生まれるんだが、雑魚、小ボスから始まり、中ボスまで本当にたくさんの奴らがいる。が、代表的な大ボスは五蓋と言われる異常な欲、異常な怒り、昏沈睡眠、掉挙(掉挙)後悔、疑の五人衆である。多分この順序で出てくる、それぞれの強さは人によって異なるかもしれない。順序も違うかも?

こいつらはすごく強いんだけど、この五蓋に勝つ(抑える、悟るまでは根絶できないが、眠らせられる)と、禅定(ぜんじょう、サマーディ)という超サイヤ人みたいなモードになれる。

*ちなみに、気づきなく、集中力を暴走させると簡単に幻覚が作れるんだけど、それは禅定ではない。禅定は五蓋を抑えたことの結果として現れるから。この5つが抑えられた状態でなくて、何か過剰な集中で意識状態が変わったら、変性意識状態、魔境と思っていい。危ない地域に行ったと思おう。

スマナサーラ長老の言葉では、五蓋を抑えることもそうだが、六根(眼耳鼻舌身意)への欲を離れることでも超サイヤ人になれるらしい(多分同じことを別の面から言っている)。また、超サイヤ人には何段階かあり、大きく分けて2段階、それぞれ4段階ある。結構強くなれる。で、超サイヤ人になっているときは、ATフィールドを張れる。強い。

たとえば、禅定を極めると二週間は眠らずに、微動だにせず、何らの不安も苦しみもない状態で、究極の幸せの状態で過ごせる。僕の経験では、1日20時間位瞑想をすると1時間以下の睡眠時間で問題なくなったので、多分本当だろうと思う。

でも、超サイヤ人、ATフィールド、残念なことにいつか壊れる。無敵モードの常として、長くは続かない。だからなったら成ったではやくクリアしなくちゃいけない。

僕は今のところ、五人衆のうちの掉挙・後悔と戦っているようだ。こいつらは妙なことにその時々の主役は違うんだけど、結構協力して向かってくる。強い。

でも、たとえば昏沈睡眠をちょっと眠らせられると、すごい集中力が出てくる。すごく、頭の中が明るくなる。掉挙後悔を眠らせると、多分、極めて自由になった感覚が出そうな気がする。ま、まだ界王拳を使えるくらいのものだと思うんだけど、一人眠ってくれるだけでこの倍数が飛躍的に上がってくと思う。

更に、このときに、さっきもかいた「智慧」のスキルを使うようになれる。これはあれだ、FFで言うところのオーディンやリヴァイアサンやバハムートを召喚するようなものだ。 超強い。煩悩を焼き尽くす。

で、この先に実は、十結という仏道の舞台であるこの私を作り上げた、10の邪神(無明という煩悩・執著の母から生まれた神々)みたいな奴らがいるんだけど、その最初の3つを、召喚獣たちで破ル。そうすると第1回目のクリアだ。クリアは4回あって、4回クリアすると輪廻転生を超え、ゲームの完全クリアとなり、仏道も終りを迎える。

ま、こんな遊びのような話はどうでもよいことなんだけど、ワンプレイしただけでも、このゲームでは虚しさに襲われないし、幸せになってく。それだけでも僕はいい。楽しんで、撃ち落としていきたいと思ってる。撃ち落せば撃ち落とすほどに、日々が楽に回転し始める。だからこのゲームは、プレイするだけですごく得になる。今ここで幸せになっていくゲームです。

珍しいよね、自分が本当に幸せになり、それが持続していくゲーム。

ま、興味があったらやってみてください。


 

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